はじめに、、

私の職業は、ケアマネジャー。夫と高校生の娘とトイプードルの三人と1匹家族。
娘が生まれてから、母、主婦、そして特養の施設ケアマネジャーの3足のわらじをはき走りつづけた17年、どれ一つとして手を抜くことなく、一生懸命だった。いや、仕事に一番力をいれていたかもしれない。
気がつけば、8050 親の介護を考えないといけない年齢になっていた。更年期障害にも苦しみ、心も体も無理がきかなくなった。
長年、特養という場所にこだわり、あたりまえの暮らしとは何かを問い続け、理想のケアを追求し、施設ケアマネとして奔走してきた。新しい施設の立ち上げにも携わりとてもやりがいを感じたし、まだまだヤル気に満ちていた。でも、身体は正直だった。
それは、急にやってきた。ある日突然、手首が痛くなり、フライパンがふれず、水を触ると腕にビリビリと電気が走った。首から肩甲骨も凝り、痛む。
新しい特養を立ち上げるまで十数年、100名のケアプランを作る(国の配置基準は、入所定員100名に対してケアマネは1人)日々、アセスメントからカンファレンス、計画書作成、経過記録、会議録、どれをとってもパソコンなしにはできない。朝からパソコンに向かい、気づけば昼、ということをやり続けているうちに、ストレートネックになり、頚椎の椎間板も変性を来して、、
ついに、頚椎椎間板ヘルニアを発症してしまった。2018年7月のことだった。ちょうど立ち上げた地域密着型特養が軌道にのり始めた頃のことだった。
大学病院を受診し、まずは保存療法。痛み止めと頚椎カラーが処方された。そのカラーは、重装備の代物で、それを装着してパソコン作業をするようにアドバイスを受けた。
これをつけて仕事していたら、、「ええ~っ‼️どうしはったんですか?ムチ打ちですか?大丈夫ですか?」と面会の家族さんからは言われ、たいそう大袈裟に見える姿だったのはいうまでもない。それから四年後に本当にそれが必要なるとは夢にも思わなかった。
さて、その時は、ひどくなることはなく、いつのまにかおさまっていったが、頸から肩甲骨の凝りは残り、整骨やリフレクソロジーに行ってみたりしながら、大学病院へは、経過観察のため定期的に通院していた。
軌道に乗ってきた特養では、施設ケアマネとしてだけでなく、管理職、そして現場との兼務など多忙を極め、またまたからだが悲鳴をあげ、結腸憩室炎で緊急入院することになってしまった。かかりつけ医から総合病院に紹介され、時間外で、着の身着のままの入院。もう、第一線で働くのはやめよ!ってことなのかな、、そろそろ、潮時か?結局、長年勤めた法人を去ることにした。
それから三年、老健の支援相談員兼務ケアマネにチャレンジしてみて、やっぱり、自分のホームグラウンドは特養だということ、私のミッションは、施設福祉の追求、追究。家族と一緒に暮らせない高齢者の隣人になること、特養でのあたりまえの暮らしの実現に取り組むことだと確信したのだ。
私の生い立ちを振り返ると、両親は児童養護施設の職員であり、さまざまな事情で親と一緒に暮らせない子どもたちの施設、その敷地内の職員寮で、子どもたちと一緒に育ち、福祉の世界をみて育った。だからと言うわけではないのかもしれないが、一度は教職を目指したが、社会にでて、介護福祉の世界に身を投じることになった。阪神大震災の年だった。介護福祉士として8年現場で働き、ケアマネジャーを取得し、結婚して、京都に移り住んでから、特養の施設ケアマネジャー一筋。
家族と一緒に暮らせない人々に寄り添うこと、あたりまえの暮らしを追い求めるのが、自分自身の生まれてきた意味ではないかと自覚している。
ここ三年は、家族それぞれ変化の年なのか、病気やけがでバタバタした。
さあ、これからまたっていう時に、、また、腕が痛くて上がらなくなった。しびれが強くなって、筋力も落ちてきた。4年前のヘルニアが増悪。c5/6だけだったのに、c6/7もヘルニアが出ていた。もう覚悟を決めるしかないと、9月 根治を目指して、頚椎前方除圧固定術を受けることにした。主治医や看護師、療法士、スタッフの愛をたくさんうけて、無事に手術は成功し、17年ぶりに、母、主婦、専門職であることを忘れて、ゆっくり療養することができた。
まだまだ人生、専門職として再出発したいという気持ちはある。それにはまだまだ気力も体力も充実していない。まだ回復の途上。
専門職として、復活するまで=リスタートまでの日々をこれから綴っていこうと思う。